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2012,08 25

書評 -男たちへ- 

※この記事は、メディアマーカーからの転載です。

小説家塩野七生の男に向けた、いやむしろ女に向けたのではないかというエッセイ。
彼女の男に対する審美眼は、「女たち」にとってもきっと参考になるはずだ。





私は彼女の作品を読むのは本書が初めてだったのだが、その中身は女性とは思えない、論理的で説得力に溢れた文章を書く人だなという印象を持った。


以下抜粋

「頭のいい男」とは、なにごとも自らの頭で考え、それにもとづいて判断を下し、ために偏見にとらわれず、なにかの主義主張にこり固まった人々に比べ柔軟性に富み、それでいて深く鋭い洞察力を持つ男、という事になる。


「口には出さなくても愛してる」とか「言葉を超えるほどの愛」とかいう言葉を耳にしたり、書いてあったりするのを目にした時、私は哀れみさえも感じる。そんなことは、外側を変えることによって内側を変えるという、人間相手にしか通用しないこの愉しみとは終生無縁な、感受性の鈍い人々だけの話と思うからである。


それに、小説や映画やテレビドラマにあらわれる「男のロマン」には、なぜか常に女が存在して、女に背を向けて男のロマンに熱中している男に、ひたむきな愛を捧げるという構図になっている。これがまた、しゃくにさわるのだ。


肉体的に他者を抹殺しなくても、精神的に殺すことも、人を殺した経験に立派に入る。そして、神さまは意地悪なことに、なにかを為そうとこころざした者は、それを表現する段階で、この種の「殺人行為」をしないですまないように、人間の世界を創ってしまったのである。この世では、なにものも為し遂げない者が最も、殺生行為から遠いところに生きることができる。
インテリ男がセクシーでないのも、毒にも薬にもならない、彼ら特有のものの考え方にも理由があるに違いない。


男が女に魅力を感ずるとは、所詮、その女をだいてみたいという想いを起こすことであり、女が男に魅力を感ずるとは、その男に抱かれてみたいと思うことに、つきるような気がする。
頭の中身も容姿も、この種の健全なる欲望を補強する程度の働きしかない。健全で自然で、人間の本性に最も忠実なこの欲望を刺激するのが、人のもっている魅力というものだろう。
インテリ男がセクシーでないのは、補強する程度の働きしかもたないものに、最高の価値をおく生き方をしているからである。ばかばかしいことを、ばかばかしいとはっきり述べる、自然さをもたないからである。それどころか、いかにももっともらしい理屈をつけることに、全力を集中しているからなのだ。これらの男たちから、マスキオが感じられないのも、当然の帰結にすぎないと思えてくる。


「原則に忠実な男」がどうして、不幸な男の、つまり男を不幸にする、原因になるのかと不思議に思われた人がいるにちがいない。なぜなら、原則に忠実な人、という表現なり評価なりは、普通、賞賛をふくんだ積極的な意味で使われることが多いからである。
ところが、それを私は、消極的な意味で使おうとしている。原則に忠実であることこそ、男の不幸の原因なのだ、と。いや、もっとはっきり言うと、これこそ、男の不幸の最大の原因であると断言していい。


理屈は、少なくともこの段階では、完全に夫の側にあることは知っていた。ただ、理屈が自分の側にあることで押し通そうとする夫の態度に、理屈だけでは処理不可能なことが多い対人関係を無視した、エゴイズムを発見したのである。
対人関係とは、相手があることなのだ。それなのに、男のほうには、相手がどう受け取るかを思い遣る心情がない。原則に忠実に、理屈にさえ合っていれば自分の行為は正しく、まったくそれを変える必要を認めないのが男の考えであったのだ。


人の一生には、多くの苦しみと悩みがないではすまないのが普通だ。たとえ他人には打ち明けなくても、胸の内にしまっておくだけでも、たいていの人はなにかしら苦悩をかかえて生きている。その人々にとって、明るさをもつ人は、それ自体ですでに救いなのである。


わたしたち女は、男を尊敬したくてウズウズしているのである。
男たちよ、その期待を裏切らないでください。


塩野七生氏の男に求める理想はかなり厳しい。マキャベリとかカエサルという、もはや史実上の人物を基準にしているのである。
これらのハードルをクリアしている男は何人いるんだろうか。

特に最初の「頭のいい男」の条件の、なにごとも自分の頭で考えて行動するなんて、これだけ情報が溢れかえっている現代では、より難しくある気がする。だからこそ、社会も今この種の人間を欲しているんだろうけど、今の所そんな人に、僕は直にお目にかかったことはまだない。
著名人では当てはまりそうな人は何人か浮かぶが、それは自由業の人が著名人には多いので、しがらみを気にせず好き勝手ものが言えるというのが大きいのかもしれない。いずれにせよ数百人に一人位のオーダーだろう。

でも、私はいつか、なってみたい。道はかなり険しそうだし、そしてこんな事を言うのはかなり恥ずかしいのだけど、なってみたいもんはなってみたいのだから仕方が無い。

結婚に、いやそもそも恋愛という、通常の人間関係とは違う感情が入り乱れる状態に、私は妙な面倒臭さ、こそばゆさがあった。
そして俗っぽい言い方になるけど、そこに性の要素が入る事で生まれる大人の汚らしさみたいなのも昔から感じていて、子どもの時から今の今まで凄い冷めた態度を取っていた。
いつまで経っても大人になりきれていなかったのだが、しかしむしろそれが謙虚でクールな、真の大人のたしなみと考えていたのだと思う。人を好きになったこともあるし、恋愛も何度かしたけど、常にはてなが頭の上に付き纏っていた。

でもこの本は、何か自分の背中を押してくれたような気がしたのだ。
恋愛に正解を求めるのをやめたら、頭の上のはてなも消えるはずだから、と。

他人のテンプレをなぞるのではなく、私なりの男女関係を歩んでいこうと思えた、そんな一冊であった。

あとは完全に余談だが、女史の他の作品で評判の高い「わが友マキャヴェリ」や、「ローマ人の物語」もできるだけ早く読んでみたい。

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